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最近、辻堂駅の北口に大型ショッピングモールがオープンしました。
オープンする前は辻堂駅北口はあまり人通りが多くありませんでしたが、 『テラスモール湘南』がオープンしてからは、車の量や人通りが多くなり、 北口周辺の雰囲気が、以前の閑散としたイメージから大分変わりました。 ![]() 駅前開発の影響で、今後当社の周りも注目度upのエリアになります。 お客様へ、いい家や土地を紹介させていただけるよう努めていきたいと思います。 髙見澤
引き渡しの終わったお客様のお宅へ、お伺いする機会がありました。
家具などが配置され、とても素敵な家になっていました。 ![]() 住み心地についてお聞きすると「満足している」とありがたいお言葉。 美味しい手作りケーキとコーヒーをごちそうになりました。 家が完成してからも、我々を暖かく迎えてくれるお施主様に感謝です・・・ 髙見澤
あの時代では、最新・最良でした。
でも時代の流れの中で、それは陳腐化していく。「社会的劣化」。 パソコンなどは顕著で2年前のPCは化石?!になります。 今の技術の進歩速度のなかでは。 私が高校生2年のころポケベル持ってる友達は最先端でした。 しかも数字(電話番号)しか出ないものでした。 大学1年のころ、携帯電話持ってる友達は最新でした。 通話料金が1分何百円とかいっていたように思います。 建築業界でも進歩しています。 筋違(すじかい:斜めのつっかえ棒)の数はベテラン大工さん任せ、が今となっては 木造で制震・免震構造にいたるまでとなりました。(とはいえ昔の社寺建築様式などは、 制震・免震構造に匹敵するような柔軟性のある複雑な組み物による架構で今の時代にもたくさんの すばらしい建築物が残っています。今のコンピューター技術をもってしても その構造解析には多大の時間を要すものが多い。) 耐震偽造があった後、建築確認も格段に厳しくなりました。 しかしその当時の決まりに則していれば 新しい基準に適合していなくても、改修しなさい!今すぐに!!とは なりません。 建築物には「既存不適格建築物」(:工事途中や竣工後に建築基準法やこれに基づく命令、 条例に改正があった場合に、該当する建築物が適合していなくても違反にはならず、 原則としてそのままの状態で存在が認められ、工事完了時に行われる建築完了検査も、 確認申請時点での法律に基づいて行われる。 そして検査に合格すれば該当する建築主事印の押印された検査済証が発行され、 不動産登記や建築物を使用する事ができる。)というものがある。 関東大震災があって「予想外です!」 関西地震があって「予想外です!」 関西の地震のときTVに写る光景は映画の中のワンシーンとしか思えませんでした。 バスが高速道路の落ちかけた先で間一髪!ショッキングでした。 最近、西湘バイパス、台風の高波で崩れました! 「予想外です!!」 最近やっと直りました。崩れた箇所は。 そのほかの箇所は知りません。補強したのでしょうか? 関西の高架道路はすべて作り直しあるいは補強したのでしょうか? してますよね。おそらく。危険がわかったのだから。そうであってほしい。 事があって初めて、だめだったことに気がつく。 「想定の範囲内です。」などと言えた人はあの人が最後かもしれません。 最終的にはつかまってしまいましたけど・・。「予想外です!」に取って代わりました。 基準は修正されていく。 物事にはすべて善し悪しの判断基準がありそれはその時、その時点での判断に ならざるを得ない。 建築の世界においても例外なく、 進化・発展は、今のままではだめだと気づくことから始まる。 だめなのがわかったのになぜ直さない?! 「既存不適格建築物」とは何?! 関西地震時に不幸にも家を失った人、あるいは家がつぶれてご家族を失った人の無念は? 建築物の耐震性は、自然の力に抵抗することを予測値(過去のデータ・実験等ふまえた上で) で計算して算出している。「実際、わからないことだが今のところ、このあたりでよい。」 と日本のトップクラスの見識者が研究・計算をして決められたそのときにおいては最高の考え方になる。 たとえ後の時代に、その結果が人命を奪うことになる重大な事態になったとしても。 「社会的劣化」ということがこのような法規範に当てはまるかどうかはわからないが、 その時代の英知を集約した結果に対しては、ある意味進化の過程においては、 仕方のないこと、として結論付けることしかできない。 「今が最良ではない。先の時代に何があるのか?」 物事の大小はあるのだけれども、「想定の範囲内です。」と自信を持って言えるような自然の力を克服できるぐらいの 力を持つ人間が現れる時代は、すぐそこなのかそれとも永久に来ないのか? 癌もエイズも治ります。アメリカまで30分で行けます。 月にマイホームを建てましょう。土地代金=坪5000円、建築費=坪5000万円、地球に里帰り交通費2億円、 かもしれませんが・・。近々ありえる話になりましょうか。 そんな時代にいまだに風邪という病気は何なのかわからないそうで。 なかなか物事、想定できるものではありません。 「今が最良ではない。先の時代に何があるのか?」 考えてもわからないかもしれないが、留まってしまっては化石になりかねない。 「余計な心配?!夢のような戯言?!」 「人が想像できる(夢見る)ことはすべて人が実現する。」とCMのくだりで見たことがありますが、 人間の力で作り出せるものはもちろん自然の力の成す所業までも想像、想定して、 「備えあれば・・・」を考えなければいけないとなるのであろうか。 自然の力を人間が凌駕し、「予想外!」→「想定の範囲!」になり、 「巨大な隕石が地球にぶつかるので、対応としては大気圏外で特大核爆弾ぶっけて処理しますんで、 まったく問題ありません。」と夕方のニュースか何かでさらっとやるような、しかも、 森田さんのお天気コーナーのなかで。 見てみたいですね。今は夢のようなその場面を。 死んだときに自身を冷凍保存する人の気持ちがよくわかります。 そのときのお天気コーナーは森田さんじゃないでしょうし、 しかも天気も変えられるようになっているでしょうし、 そうなれば天気という概念そのものがないかもしれません。 現に雨を降らせる実験をして成果を得ているとだいぶ前に聞いた事があります。 何かの粉を空に撒いてそれが水蒸気と合体して雨となる、とかだったと思います。 あとは雨を晴天にする技術だけですから。 「想定の範囲内です!」→「予想外です!」は人間が日々進化を遂げている証です。 だめだから良くしよう、もっといいものがあるはずだ、と。 人から作り出されたものは作られた瞬間にそこの時代に留まりますが、 人間はさらにさらに進もうとする。常に「予想外です!」というものが進化にとって自然・不可欠。 いまに予想外が想定の範囲になることでしょう。 某携帯電話の会社のCMを見て上記の考えからこの会社のすごさを思う傍ら、 「もうちょっと電波良くならないのかね?ソフト○ンク。途中で切れるし、まえぶれもなく。 それどころか、かけようと思って通話押して耳を当てていると、何事もなかったように初期画面!」 「また、切れてるよー!!!」と憤慨する当社で全員同じソフ○バンクの同機種で同じ憤りをおぼえる面々。 前を見すぎて今(の問題)が見えないのも困りますが・・・。 望遠鏡を覗きながら石橋をたたくのは相当困難なことということなのだろうか。 「きれてなぁ~い。」という髭剃りのCMも今は見かけないですし、 「きれてないっすよ。」と長州力の物まね芸人もあまり見かけなくなったが、 「きれてますよ。」携帯電話に対しては!仕事で使っていますし。 通じて当たり前、途切れなくて当たり前、安くて当たり前。 当たり前になったのはいつのころか?当たり前と思うようになったのは? ちょっと前まではポケベルですけど・・・。 ポケベルも最新でしたよね。当時は。すごく便利だった。 考えて見ましょうよ。昔は仲のいい友達の家の電話番号は覚えていましたよね。 親戚の家もしかり、取引先もしかり。 今、脳味噌は電話番号を記憶することをやめてしまった。記憶する必要がなくなった。 携帯、落っことしたらパニックですね。 (バックアップ取るのが当たり前の世の中ではありますが。取っていない方はすぐに取りましょう。 今、あなたの脳は電話番号を覚えることに関しては相当放棄していますので。 家族の携帯電話の番号、彼女の携帯番号など覚えてる方、少ないのでは。) けっして携帯のアドレスを全消去して電話番号を覚えて脳を活性化しましょうなどと思っているのではありません。 ただ昔のことを少し考えることも必要ではないかと思うのです。 「あの時はあれが最新だったよなぁー」と。 あの時は良かった。でも今となっては時代遅れで「悪い」こととも言えなくはないような古臭さ。 たいていのものはそうであろう。 思うところ、ゆでたまご先生の「キン肉マン」という漫画のTV放映のCMの入りに 「牛丼一筋、300年♪、早いのうまいのやっすいのぉー♪」 この拍子に歌われた完璧さ。時代に逆らわず親しまれて300年とともに今となってなお、早い!うまい!と 言わしめる。商売としての理想の形がここに集約しているとも思えるこのフレーズ。 どういう意図があってこのフレーズが歌われているかは知るところではないが、 300年の間の試行錯誤があり、その結果、最新のニーズに合うものが絶え間なく作られ続けている、という事と 解釈することは出来ないだろうか。 「試行錯誤」≒試行(お試し:ここらでどうだろうか?と試してみる。) ≒錯誤(誤っているかもしれない。でもやってみなければわからない。) ホリエモンの「想定の範囲内です。」 ソフトバン○の「予想ガイです!」 聞き手として「想」の内、外で言うところでは内は安心、外は不安に表向きなるところでしょうが、 「想」の「内」などと堂々といっていること自体が、時代に留まることの宣言になるような気がしてなりません。 今のところの常識では「内」です。と。 どちらが良いのか悪いのかわかりませんが、 今の超スピードのなかで「想定の範囲」などということ自体が 時代に合っていないと思うのですがいかがでしょうか?ホリエモンさん? 山本
ここ数年のいろいろな社会問題を見ていて思うことがある。
ミートホープ、耐震偽装、赤福、銀座吉兆などなど。 消費者の信頼を裏切るような物事の数々。 なぜ今になってぼろぼろ出てくるのか? それとも昔からか? おそらくそれは昔から行われていたことであろうと思う。 ただ明るみにならなかっただけであって。いつの昔からか? 従業員は知っている。それが悪いことだと。 でも会社の方針、慣習だから、と。 中国人の見識者も知っている。 上海の超高層建築物の耐震性を。 100年に一度あるかないかの大地震に対しての耐久性を。 資本主義経済の仕組み(価格自由競争)のなか、予想を超える規模の地震に 耐えうる建築物に万全の資金をつぎ込んで備える消費者はごく少数。 「今までなかったから大丈夫でしょ。多分。」 建物にかかわらず車、家電など経済設計という美しい言葉の裏側には、恐ろしい可能性を秘めていると思える。 自由競争=低価格競争の様相を呈していて、建築業界もまたそれの中にある。 「いいものを安く!」と企業・会社の努力は全力でそこに注がれている。 技術の進歩・発展には不可欠な要素であることは間違いない。 いいものとは、買って使って、味わって初めてわかることが多い。 そうなると先に急ぐもの、重きは「安く」になりがちだ。 行き過ぎた価格競争の中にあるのは売り手→買い手の一方通行の悪の枢軸。 いいものだとわかる前に買い手はお金を払っている。 一方通行といったのは 手に入れたものが「悪いもの」と知ったとき、払ったお金を取り戻すのに 買い手は時間と労力をそがれる。 それを売り手は知っている。 売り手は買い手(消費者)に自分が置き換えられた時(同じものを売り手が買うとき) その商品に対してどう思うか。 そこに思いを寄せる前に利益・利益・利益。(あくまで現社会問題のある組織における 悪しき倫理観を想像しての記述であります。) 会社組織は利益がなければ成り立たない。 鮎の塩焼きが残っていれば次のお客に出す。 鮎1匹分の利益ゲット。 (高級料亭で出された鮎を残す人もいるんだなぁ?引き上げた鮎はチンして出すのかなぁ? それとも高級だから冷えた鮎でもOKだと思ってしまうのかなぁ? ファミレスで添えられているパセリやクレソンも使いまわしなのかなぁ? 食べないからどうでもいいけど。)と庶民感覚100%な私の疑問。 余談ですが。 売り手と買い手、言い換えて、人と人との信頼関係はどうなってしまっているのか。? こう思う。 車を運転しているとき。 前のドライバーあるいは、後ろのドライバーはまともな運転をしてくれるだろうか? もし前の車が急停止したら。 後ろの車がブレーキが壊れて突っ込んできたら。 考えるだけで、というより考えてしまっては、恐ろしくてハンドルを握ることは できなくなってしまう。 通常の生活の中で無意識に人対人の関係で信頼関係を築いているところは非常に多い。 というよりもすべてがほかに依存し、頼り切っている。 車社会もそうだが、電車に乗ったとき、飛行機に乗ったとき。いってみれば、 近所に歩いて買い物に行くとき、朝、蛇口をひねって顔を洗うときまでも。 水が蛇口から出るためには相当人数の人々の信頼できる行いがなされた結果であろうと。 自分が歩行者、目の前の歩行者信号が青。渡りますよね、当然。 でも車は止まってくれるとは限りません。信号に気づいていないかも。 電車もしかり。関西で大事故がありましたし飛行機にいたってはそこらじゅうで 落ちてますね。 私の記憶では歩いて事故に遭う確立よりも、飛行機事故のほうが少ないとか・・・。 ある意味そうでなければ困りますが・・・。 「いやぁー、この前、飲酒の車に突っ込まれちゃってー」という談笑はありですが、 「いやぁー、この前飲酒飛行機に乗っちゃって。」というのは洒落になりません。 無意識に信頼関係を築き、そして裏切らない。 今のご時世、そんな奇麗事は言ってられないことになってしまっています。 企業・会社は価格競争のなか訴訟にも備えます。 ぎりぎりの中で利益を上げることの中のリスクを自覚しているからです。 PL法でやられないようにしなければ!と。 欧米でのお話。 コーヒーをこぼしてしまって火傷した。 「コーヒーが熱いからだ!」 と裁判沙汰になるそうです。 お話になりません、と思うのが私は未熟だということです。 欧米でコーヒーを売るには火傷をしない程度のぬるい温度でお客様にご提供しなければなりません。 日本でも、玄関引き戸(サッシだったか?)の引き戸を閉めて、子供が指をちぎってしまったと。 今の玄関ドアは防犯、断熱性などの性能を高めるために重量が大でがっちりしたものが 多いのです。 企業の努力の賜物です。 なぜ?こうなってしまった?日本人。 想像の域をこえませんが、私なりに考えました。 昔々、日本の家では、寝食が同じ部屋で親子のコミュニケーションが毎日でした。 日々、父親の苦労、母親の苦労を子供たちは目の当たりにしていて、 また子供たちの悩みも親は知る手段が今よりもあったに違いない。 近所のガキ大将にいじめられてこずかれて泣いて帰っても、やられたらやり返せと 叱咤激励することでしょう。 「お宅の子供に殴られて・・云々!!」親同士の抗争? なかったと思います。 「悪いことは悪い」、「弱ければ自分で努力して強くなりなさい!」、 と当たり前に言うこと。 そんな光景は信頼しあう対人関係で一番近い親子の間(人対人の一番身近な形態)では当然の ように日常、あったでしょう。 ある時代戸建の建築様式で寝食分離という欧米建築文化の伝来?!があり戦後のGHQ政策よろしく、 日本はスムーズに?そちらに移行していく。 そんなある一家の光景は、 ご主人は朝は早く、朝ごはん無し。 夜は残業で深夜の帰宅、お子さんは塾で夜ご飯もお弁当。 などとメディアで見かけます。 ご主人の状況:企業努力=従業員努力、残業。早出。は当たり前。 子供さんの状況:就職は出身校至上主義なのですから、塾に行かなければ! 学校の授業では受験対策になりません。 (もちろん当てはまらない企業・会社も多数ありますが) この状況でいつお互いのことを思うのか?いつお互いの日々の変化を感じる事はできるのか? いつお互いに信頼が生まれるのか? CMで授業参観の光景でお父さんが息子についてのことを発表する場面で、何も言えなくなるというものが ありました。 「うちの息子はすばらしい子です。趣味は・・・。(汗)好きな食べ物は・・・(汗)」 すばらしいということはできたが、その後は何もいえないというシュールなCM。 息子のことは一切わからない。 親子間での人対人の信頼関係すら揺らぐ時代において(すべてがそうだというわけでは当然ありません)、 会社に対して、知人に対して、無関係な人に対して無意識に、無条件で、信頼しきる (日本語おかしいですが、全信頼という意味)など到底ありえないということになって当然なのか? 日本人の対人への希薄感・不信感。自分以外はすべて信じることができない。 疑ってかかるまず第一歩。 タクシーの運転手と後部座席の間の間仕切りは最近見かけますが、銀行の受付窓口などにも そのうち分厚いアクリル板が取り付けられるように近くなると容易に想像つきますし。 問題が起きたら後にも先にも、 「話し合い?必要ないよ。訴えればいいじゃん!熱いコーヒー作ったやつが悪いし!」 行き着く先は欧米化訴訟社会。 若い大工さんが、釘を打つのにカナズチで指をたたいてカナズチ製造メーカーを 相手取り、 「カナズチの頭が固すぎる!!」と訴え出る日が来ないことを切に願う。 もしそうなれば、「欧米かっ!!」とタカ&トシばりに激しく突っ込みを入れようかと。 売り手側の近々の偽装・もみ消しなどの問題の発生が数々出てきた背景にあるものは、 生活を包括する「すみか」である家の欧米化に伴い、人と人の関係希薄で生まれ育った 人間が主になり社会活動をする企業・会社(先述の売り手側)自体の内包する精神であり、 また、同じく欧米化「すみか」から生まれた「クレーマー」(イイガカリをいう人)なる言葉に 当てはめられるゆがんだ買い手(コーヒーは熱からずぬるからずをのみ許容する。)ともいえる精神。 ともに欧米化住宅の普及によって生まれ出てきた現況日本人の必然的な精神状況であろうと 考えることはできないだろうか。 かく云う私も生まれも育ちも「欧米化!」住宅でありますが・・・・・。 大昔の住宅形態の時代でも悪の精神はあったことは、間違いありませんが、 ただ、人は良くも悪くも生まれ育った環境に起因することがあるという中で、 住居環境そのものである「すみか」がそんな精神を生み出す一端を担うのではないかということで この発想の結論付けとしたい。 ここ数年のいろいろな社会問題を見ていて思うことがある。 山本
銀行って3時でしまりますね。
シャッターがガシャリと。 考えれば当然のことではあるのですが感覚として、 いままでこう思ってました。 銀行にお勤めの方は3時で業務終了! ありえませんね。社会人としてこの発想は。 この間、初めて3時以降のシャッターの裏側を見る機会があったのですが。 それはもう皆さん持ち場を離れず、ネクタイも緩めず、 びしっとお仕事をされておりまして。 (実際、貸付業務などでお客様が店内にいるからなのでしょうが) 当然のことなのでしょうが・・・・。 こう思いました。 いろいろな仕事があって人がいて、それぞれに見えないところもあって、 考えればわかることなのだけれども、いちいち考えをめぐらせないで 気づかないことであったり、 私自身の意識が行かないところにこそ、その人が見てほしいところがあったり 物事の裏側に重大な意識があることもありえると。 山本
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